終わりからはじまる話。ージムで見た、栗山巧の孤独と美学ー
ひとりの偉大なアスリートの物語が、静かに幕を下ろした。
2026年8月30日。埼玉西武ライオンズの栗山巧が、25年間にわたる現役生活に終止符を打った。最終打席で放った見事なセンター前ヒットと、一塁ベース上で見せた万感の表情。通算2152安打を積み上げ、四半世紀もの間ライオンズの精神的支柱であり続けた不世出のバットマンの、見事な引き際だった。
彼がたゆまぬ努力でレギュラーの座を勝ち取り、背番号が「52」から「1」へ変わったあの頃、私は小さな会社を立ち上げた。実績もない若き日の私にチャンスをくれたのは、メジャーリーグの道を切り拓いたパイオニアの野茂英雄さんや栗山選手のパーソナルトレーナーを務める、大川達也氏だった。ジムの敷地内にオフィスを構える幸運に恵まれたおかげで、私は幾度となく胸を打つ光景を目にすることになる。汗を流す現役晩年の野茂さんと、芽吹いたばかりの栗山選手。世代を超えた二人が、ただ黙々と己と向き合う、その静かな佇まいである。
大川氏のジムには、一般的な施設にあるような重厚で威圧的なトレーニングマシンはない。印象に残っているのは、どこにでもあるバランスボールやタオル、あるいは一本の長い棒を使って黙々と体幹やバランスを鍛え上げる栗山選手の姿だ。足掛け6年、オフシーズンのたびに目にしたのは、理想の打撃フォームを求めてストイックに没頭する、ちょっと猫背ぎみのあの背中だった。ある年は右足を高く蹴り上げ、ある年はすり足気味に構える。誰もいない真冬のジムで重ねられる、泥臭く、それでいて繊細な鍛錬。その熱量をすぐそばで感じたからこそ、栗山選手は、理屈抜きに心を惹きつけられる特別な存在となった。
だからこそ、どうしても見てみたかった光景がある。栗山巧が侍ジャパンのユニフォームを身にまとい、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)やオリンピックの舞台で、海外の剛腕たちに立ち向かう姿だ。
あの静寂なジムで培われた圧倒的なコアと卓越したバットコントロール、そして強靭な精神力は、間違いなく世界の舞台でも通用したはずだ。国際大会特有のヒリつく重圧の中、鋭い眼光で打席に立つ彼がいれば、どれほど心強かったことか。2009年や2013年のWBC大会では同じ左打ちの外野手が多く選出され、2012年と2016年の夏季五輪では野球競技そのものが除外された。その巡り合わせの悪さは、ただただ惜しまれる。
そしてもうひとつ。長年、国際大会で通訳を担ってきた者として、栗山巧の言葉を世界に向けて一度は発信してみたかった。スポーツの国際舞台における通訳の役割は、時に単なる言語の変換作業に留まらない。その選手が背負う誇り、覚悟、そして生き様そのものを言葉に乗せて伝えることもある。
「25年間、ライオンズの栗山であり続けました。今もこれからもライオンズの栗山です! 25年間本当にありがとうございました!」
引退スピーチの最後を締めくくったこの言葉。私なら、どう訳しただろうか。
"For 25 years, I've been Kuriyama of the Lions. Now and forever, I am Kuriyama of the Lions! Thank you all so much for these incredible 25 years!"
彼の言葉には、チームへの底知れぬ忠誠心と、武士のごとき気高いプロ意識が宿っている。もし彼が世界の舞台で戦い、その胸の内を語ったなら。あのジムでの孤独な闘いを見てきた私は、彼の呼吸そのままにその熱を英語へと変換しただろう。――「彼こそが、日本が誇る本物のバットマンだ」と。
世界の舞台で躍動する栗山選手を見ることは、残念ながら叶わなかった。しかし、彼が心血を注いで築き上げた美学や打撃の奥深さは、これからの球界を担う若い世代へと確実に受け継がれていく。ひとつの美しい物語が終わる場所には、必ず新しい物語の種が蒔かれているものだから。
これまで野球場で出会った、たくさんの言葉たち。アスリートの剥き出しの感情や、美しくも泥臭いベースボールのリアル。「Between the Lines(行間を読む、フィールドの白線の内側)」というタイトルには、そんなスコアブックには表れない背景を訳して伝えたいという思いを込めました。
栗山選手が全身で魅せてくれた野球へのリスペクトを受け継いで、今日からこのコラムを新しくはじめます。これからどうぞ、ご贔屓に。
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