ボンズとケント――最強コンボの24年越しの抱擁
野球場で通訳をしていると、辞書に載っていない言葉に出くわすことが本当に多い。
アメリカで新庄剛志さんの通訳をしていた頃。その日の打順が下位打線だと、新庄さんはよくこんな枕詞を口にしていた。「今日は(7番や8番だから)やる気なしおちゃんやね」。もちろん、試合中の本人はやる気満々である。下位打線に甘んじた照れ隠しであり、ユーモアたっぷりの彼独特の空気感。あなたならどう訳します??
最終的に僕は"Mr. No Motivation"という意訳にたどり着いたけど、上手い訳が浮かばず、頭を抱えた楽し苦しい記憶は数知れない。
ふなっしーやピコ太郎の通訳として知られる橋本美穂さんは、通訳のプロセスを「ママ訳」→「直訳」→「説明」→「意訳」、そして最後は、ピッタリの言葉がなければ作ってしまえという「飛訳(ひやく)」の5段階に分類している。さすが言葉のプロ、膝を打つ。
これに倣って、スポーツの現場でよく耳にする“chemistry(ケミストリー)”という単語の訳を分類するとこんな風になる。
ママ訳(音のまま): 『ケミストリー』
直訳(意味の置き換え): 『化学反応』
説明(背景の補足): 『単なる相性ではなく、噛み合わせや信頼関係』
意訳(意を汲んだ別の表現): 『馬が合う』
現役時代の新庄さんの数々の名言は、主に「意訳」で切り抜けてきた。だけど、当時チームメイトだったバリー・ボンズとジェフ・ケントの“chemistry”だけは、ずっと最適解が見つからないままだった。
※無料登録すると「野球を訳す」の新着記事をメールで受け取れます。
話は2002年6月25日、サンディエゴでの一戦に遡る。スコアブックには「7-10でジャイアンツの敗戦」と残るゲームの裏では、球史に刻まれる大喧嘩が起きていた。取っ組み合ったのは3番バリー・ボンズと、4番ジェフ・ケント。チームの通訳だった僕は、その一部始終を目撃した。
きっかけは内野守備の乱れだった。ベンチに戻った二塁手のケントと三塁手のデビット・ベルが「胸に投げろよ」「ベストを尽くしてるんだ!」と言い合っているところへ、外野から戻ったボンズが仲裁に入った。
次の瞬間、ケントがボンズを一喝する。「お前は引っ込んでろ!」
その一言でボンズの導火線に火がつき、二人は胸ぐらをつかみ合った。直後の攻撃でボンズが3ラン、ケントも一発を放ったものの、試合には敗れた。帰りのバスを包んだのは、通常の「敗戦の沈黙」とは明らかに違う、肌がヒリつくような張り詰めた空気だった。
2000年から2004年までの5シーズン、ボンズとケントは2人だけでリーグMVPを独占(ボンズ4回、ケント1回)した。チーム内のMVPではない。リーグMVPをだ。驚異的、という言葉すら生ぬるい凄まじさだった。
クラブハウスや移動の機内で、彼らが会話している姿は見たことがない。お互いを「好き」になることもなかったと、聞いたこともある。それでも、同じグラウンドに立つ戦友としてのリスペクトだけは、確かに持ち合わせていた。
嫌いだからこそ、相手の打席の凄みを誰よりも認めている。自分が凡退して隣の男に恥ずかしい姿を晒すわけにはいかない――。そんな剥き出しのプライドが、二人を未踏の高みへと押し上げていた。
取っ組み合いから24年が経った、2026年8月29日。ジャイアンツの本拠地オラクル・パークで、米国野球殿堂入りを果たしたケントを称える式典が行われた。名だたる球団レジェンドたちが並ぶ中、最後にボンズが紹介された。
誰もが息をのんで見守る中、ボンズはケントをぎゅっと抱きしめ、いたずらっぽくその体を揺さぶった。ケントの顔に、現役時代には決して見せなかった満面の笑みが広がる。わずか十数秒の抱擁。だけど「メジャーリーグ史上最悪の犬猿の仲」と呼ばれたふたりが交わしたそのぬくもりには、24年分の重みがすべて詰まっていた。
式典のスピーチで、ケントはボンズとのケンカに言及した。「あの衝突がなかったら、僕らの数字は生まれなかったと思う」「彼と私は一度だって夕食に出かけたことはないけど、もし戦争に向かうのなら、私はいつだって彼と出かけるよ」。そして壇上から、まだ殿堂入りを果たしていないボンズへ「諦めず進み続けてくれ」とエールを送った。
彼らの抱擁を見ていたら、とっさにピッタリな訳出しを思いついた。ママ訳の「ケミストリー」でも、直訳の「化学反応」でも足りない。説明の「噛み合わせ」では軽すぎる。意訳の「馬が合う」では、殴り合いながらもお互いを高め合っていた、あの熱量には到底届かない。
試合中に乱闘を起こしながら、スポーツ界を震撼させたふたりの関係。橋本美穂さんの「飛訳」を借りるなら、こう訳すほかにない。
――「最強コンボ」。
ケントの殿堂入りに、心からの祝福を添えて。おめでとう、ジェフ!
最強コンボがハグをした、記憶に残るセレモニーでした。
これまで野球場で出会ってきた、たくさんの言葉たち。激しい喧嘩の中にすら、深い敬意が存在します。「Between the Lines」というタイトルに込めたのは、スコアブックには表れない「行間」を、皆さんに伝えていきたいという思いです。ぜひ無料登録をお願いします。
すでに登録済みの方は こちら
